コーナー展示「湖北の土豪④ 三田村家」
会期:令和7年(2025)10月7日(木)~12月7日(日)
開催趣旨
三田村家は浅井郡三田村(長浜市三田町)を拠点とした土豪です。室町時代後期、幕府の権威が衰退する中、各国の守護らによる後継者を巡る争いが全国各地で繰り広げられていました。明応5年(1496)、美濃では、美濃守護・土岐氏の後継者を巡り、実権を握っていた斉藤妙純と石丸利光が争う「船田合戦」が勃発します。この戦いは、近江や尾張など周辺地域にも波及し、近江守護であった京極氏の命で、浅井氏と三田村氏が美濃に出兵したことが「船田後記」という史料に記されています。
その後も、三田村氏は当地の有力者として、歴史にその名を刻んでいきます。大永3年(1523)、北近江の実権を握っていた京極高清の後継者を巡り、北近江の土豪たちが争い、高清の長男・高広と浅見氏が権力を手中に収めるクーデターが起こります。この時、高広側に付いた土豪の中に、浅井三代の初代・浅井亮政と三田村氏がいました。しかし、浅見氏が実権を握った時代は長く続かず、大永5年(1525)、敵対していた高清と結んだ亮政の台頭により、その地位を追われます。
こうした混乱に乗じ、南近江を支配していた六角定頼は北近江に出兵、亮政が築いた小谷城に迫ります。越前の朝倉氏も六角方に加わり小谷城を攻め、亮政、高清らは美濃へ落ち延びます。六角氏との戦いにおいて、三田村氏の一族である三田村弾正忠忠政は亮政に味方します。忠政はこの戦いで奮闘し、殿を務めたとみられ、亮政が忠政に宛てた感状が伝わっています。
三田村家は、亮政にはじまる浅井三代に仕え、長政の時代には三田村左衛門が浅井家の重鎮として活躍しました。姉川合戦の時には、左衛門は横山城を守り、浅井軍の撤退後は小谷に籠城するなど織田軍と戦いました。天正元年(1573)、織田軍の猛攻を受けた小谷城は陥落し、この時、左衛門は一族とともに処刑されたといいます。現在、三田村家の本拠であった三田村氏館跡は、「北近江城館跡群」の一つとして国指定史跡に登録され、当時の威容を今に伝えています。
主な展示資料

浅井亮政感状 三田村忠政宛
紙本墨書 大永5年(1525)9月19日 個人蔵(徳島三田村家文書)
浅井三代の初代・浅井亮政が、三田村忠政に宛てた感状。大永5年9月、亮政は北近江に出兵した六角定頼との戦いで敗北し、京極高清親子と共に、美濃へ逃れている。本感状は、その際に、奮闘した三田村忠政に宛てたもので、合戦における活躍に感謝を述べている。この翌年には、亮政は北近江へ戻り当地の実権を取り戻している。